個展の背景

地獄放浪者の告白
―神秘への傾倒―

高松潤一郎
美術手帳 1968年 9月号


長い間私は自分の持っている予言力に悩まされてきた。
私の願い、予感がほとんど間違うことなくあたるのだ。
さらに悪いことには、キャンバスを前に
薄暗い室に一人でいると、とじられた小さな
室、それよりさらに小さなキャンバスに、
私をとりまく大宇宙を閉じ込めることが可能
に思われてくるのだ。
「人間は気まぐれの小天地をなしていて、た
いてい自分を全体だと思っているが、私など
は部分のまた部分です」・・・・(「ファウスト」よ
りメフイストのセリフ」
小悪魔でさえ、こんな謙虚な言葉を吐いて
いるのに、この私はいったいなんだ?
だが私よりすごい男がいた。
「星空を眺めていると、それがいかにも小さ
く感じる。それは私が大きくなりつつあるの
か、でなければ宇宙が収縮しているのであ
る、さもなければ、その両者が同時に起こって
いるのだ」(ダリ「異説近代芸術論」より)
私は神秘的なものが好きだ、秘密が好き
だ。だから本当は自分の作品「絵」の誕生
の裏を見せることは好まない。
裏を見せたが最後、秘密の持つ甘い毒薬の
薫りが失せてしまうことを、いやというほど
知っているからだ。
私とて、幾万年繰り返し行われた、無意
味な?一つの生にしかすぎないのだから。
絵描きが自分の絵に対して、言葉で説明
しようとするのは、本当のところ、自分の描き
たかったことを一枚の絵に表しきれなかっ
た、と公にすることにしかならないだろう。
だが幸か不幸か文章には、絵画にとうてい
真似のできない一つの遊戯がある。つまり、
どんな理論でも、その気になりさえすれば、そ
れを正統化できるという遊びである。
いまこそ私は、私の立場を守るために、そ
れを武器として使わせてもらおう・・・・。
どうして、こういった絵ができるか?と
いう質問の前に、なぜ絵を描くのかという問
いに解答を与えねばならない。これは、とり
もなおさず「人間はなぜいきるか?」という
永遠に解答不可能な壁を、他の場所からぶち
こわそうとする行為に他ならない。
「人間にとってよいことは、まったく生まれ
てこないことであって、そのつぎによいこと
は、もしも不幸にしてこの世に生まれてきた
なら、なるべく早く死ぬことである」・・・
などと気短なことをいうものじゃない。
私は苦しみの底にたどり着いたこともない
し、虚無の底を見たこともないから大き
なことはいえないが、苦しいから、また無意
味だからといって、我々は自分自身を簡単に
破壊してよいものなのか?
たとえ自己催眠でもよい、苦しさや、無意
味さをなぜ他のものに変えるように努力しな
いのか。人間の精神を訓練することなしに、
LSD、麻薬、酒、眠り薬などで、かくも安
易に苦しみから逃れようとするのか私には理
解しかねる。
これはご存じのように、体によくありません。
安易さには、たとえ、一時はごまかすことが
できても、かならずその安易さによって復讐
されることを人は知るべきでしょう。
私に我慢ならないのは、人の精神が薬に支配
されるということであって、薬を使うことの
善悪うんぬんではない。
さていったい、私はなぜ絵を描くのか?
「私はバラを守らなければならない。それは
私が、私の大切な時間を、このばらを育てる
ことに費やしたのだから」(星の王子さまより)
これで充分であろう、、、、、。
この作者は心の奥底で、バラを育てること、それ
自体、なんの意味がないことをいやというほど知って
いるのだ。私とて同じことだ。だが私は、心の奥底に
煮えたぎる虚無の頭をどのようにして押えつけたか。
多くの人間がそうしたように、私はまず哲学を勉強
した。今まで何人の天才哲学者がこの世に出たかは
知らぬが、その多くが発狂して死んでしまったのは、
広く知られていることである。
このジャガイモ頭で、今さらなにを考え出そうと
いうのか?、、、、つぎに禅をやろうとした。
だが身動きしたら木でひっぱたくなど、あれは
万人向きではない。
つぎに精神分析の本を読んだが、もし悪魔が精神を
調べる完全な機械を作ってくれたなら、最初にその
機械にかけられるのは、かれら精神分析医であること
を、ここに誓う。
そこで当然、われわれは神秘主義に目を向けるべき
である。これによって人間が容易に救われることは、
すでに歴史が証明ずみである。
われわれは、いや私は、熱狂的な世界に浸りきらねば
ならない。できることなら知性など全部ふり捨てて、、、。
「知性は我々を懐疑の霧に導くのがおちである」(ダリ)
いまや私はなんのためらいもなく絵を描くことが出来る。
さていったい、なにを描けばいいのだろう。私は宣言する。
もしも充分な時間を与えてくれるなら、どんな題材を
与えられても、大向こうを「ウ-ム」とうならせる作品に
仕上げて見せることを、、、、、。実のところなぜ描くかを
本当に考えた人間にとって、なにを描くか?などまるで
問題にはならないのだ。
花を描きたい人間は花を描く、それはもはや個人の好みに
すぎない。
私は怪物を描く、当然なことだ、神の死んだ現代の神秘主義者
には、悪魔を信ずることしか出来ないのだから、、、、。
私は予言力を持っていると言った、これは特別な力じゃない、
ただ自然を注意深く観察しさえすれば、誰でも手に入れられる
自然魔法なのだ。
ものには全て二面性がある、手に入れてその為苦しむことも
ある。予言など出来ない方が良い。
生きとし生ける者は、みな自分の地獄を持っている。
小さな子供のころから、大切にしていた糸が切れて、
それまでとは異なる世界に入る時、人は地獄を一瞬垣間見る。
存在を地獄とみなしてしまうのだ。そして糸が切れるという
儀式が終わると、人はもはやなににも脅えなくなる。
もはや切れるものが無いのだから、、、、。そこには
落ちる恐怖さえ存在しない、幸いなことに?それに
慣れてしまうのだ、、、。そして大人になっていく。
だが、垣間見た地獄を忘れることが出来ない者がいる、
その光景を繰り返し飽きもせず描き続けるのだ、、、。

この世に死んで生まれて、医者に駄目だと言われたのに、
死物狂いで私を打ち、血まみれの私の口から生命を吹き
込んでくれた産婆、、、、。この世に出て数分の後に
生命を与えようとする者、すなわち「神」と口づけをかわしたのだ、
だから、、、、、
今日もまた太陽の何億分の一かは知らぬが、私にとっては
まだまぶしすぎる電灯の下で、私は私の呪いを描き続ける。



この文章は筆者26才の時に書かれたもので、今読みなおして
みると、赤面する個所が多々あります、しかしながら
35年ちかく経った今でも、考え方は少しも変わっていない
のです、我ながら驚いています。
余りに稚拙なところは改良させてもらいました、文意は
変えていません。  文責 高松潤一郎