<高松潤一郎さんのイマ-ジュを言葉に置きかえることは不可能である。
言葉に置き換えてみても、イマ-ジュを喚起することはできないし、
月並みな説明に陥るのがオチだからだ。
たとえば高松さんの絵を陰花植物や珊瑚礁の光景に譬えてみてもラチはあかない。
かねてから,私はそう思っていた。
このあいだ、絵を描く手順について話をしているとき、
高松さんは「映像が見えてくる」ということを言った。
カンヴァスをサンド・ペ-パ-で丹念にこすって滑らかな面にしたあと、
色を指ですりこんでゆくと、俄かに画面空間に映像が見えてくるというのである。
斑紋と内景とは分かちがたく溶けあい、
内景は斑紋のフィジカルな次元を一挙に突き破って、
メタなる次元へと変容するのである。
このプロセスに私は興味を覚えた。
なにが見えてくるのだろうか。
メタフィジカルな次元と私は書いたが、
この世のものではないという意味をもたせたつもりである。
つまり高松さんの映像は超日常的な薄明に包まれた内景である。
透明にゆらぐ生物神学的な物語の世界だ。
外界に仮説された色斑という場を媒介にして
胎内風景へ下降するのが高松さんの方法論だろうか。
一切の根源であるアプリオリの自己の域内に還ろうとする試行かもしれぬ。
全きエンテレケイアへの回帰がここで志向されているのだとすれば、
混沌とした生命の深層へ分け入ろうとする20世紀の大命題に
高松さんも挑戦していることになるだろう。
かくて、深層の高松さんの在りように今年も私たちは出会うことになった。
芸術によってのみ開示され得るモナドの風景は、このうえなく優美に異形である。